ドラッカーいわく、

「自分の強みを行かせる何かをしなければ、人は何かを成し遂げることはできない」



また、スキナーいわく、

「自分の評価される場所を選ぶことはきわめて重要である」



また、"What I wish I knew when I was 20"の著者であるティナ・シーリグも、

「自分のスキルと興味と市場が重なる金鉱を探す」ことの重要性を述べています。



ここで重要なのは、一度は自分にとっていいものと思えたものであっても、実際はそうでないことはままある、ということです。



人は、それまで続けてきたものがもし意味のないものであったとしても、それをやめたり、捨てたりすることを拒みます。それは、自分の否定につながるからです。



でも、それは正しくない。



人は間違えるからです。

失敗から学び、最適な場所を見つけることができるからです。



捨てるべきものに固執するのは、最適な場所を見つけることを拒むのと変わりません。



失敗することを「学び」と考えるか、「恥」と考えるかは文化の違いですが、「恥」と考える文化は、人々を萎縮させ、失敗を過大評価し、修正することを否定します。

「修正するなら、なぜやる前に良く考えて修正しないようにできなかったのか」と。



ゆえに、老人が跋扈します。

長いことその場所にいた老人が、下の世代がそのフロアに上がってくるのを防ぐために、いつまでもとどまろうと自分のしてきた失敗を何の礎にもできなかったくせに、「お前のしそうなことなどお見通しだ」とも言わんばかりです。



流動的であることがすべて善だとは思いません。



でも、同じ場所にい続けてその場所がよどんだ川のようになることは悪だといえます。

川もよどんだら悪臭を放ちます。



人は、変わることを恐れてはいけないと思います。



もちろん、個人の中でも同じだと思います。

自分に合わない環境だったからといって違う環境を探し続けても、結局同じような結果になることはあります。

それは、自分がいけない。

自分が変わらないといけない。



その努力をして、それでも同じ結果になったのなら、それは間違った選択をし続けていることだとわかる。

何かが、間違った選択をさせている。

それは調査不足かもしれないし、まわりの人の意見に惑わされているのかもしれない。もしかしたらお人よしだからかもしれない。



それ以前に、自分の望む評価を得られる、フィットした場所ではないということがわかるなら、問答無用です。

それ以上そこにいる意味はない。

たとえ遅いといわれようと。